はじめに
昨年9月の「小泉劇場」選挙で圧勝し、郵政民営化を強行した小泉政権は、次の主たる「構造改革」の目標を行政改革におき、大々的な公務員攻撃を展開してきている。国民に消費税の大幅引き上げをはじめとする大増税を受け入れさせるうえでも、それは緊急不可欠な政策として位置づけられているのであるが、今日の行革のねらいはそれだけではない。さらに重大なのは、そこでは憲法改正の策動とも連動して、労働者・国民の権利を空洞化させ、政府・自治体の公的責任を放棄し、公的資産を収奪する政策が追求されていることである。「小さな政府」論は、そうした小泉政権の政策を正当化し、受容させる、イデオロギー的推進力となっている。今回の報告では、労働運動の見地から、「小さな政府」とはなにか、その政策の実際のねらいはどこにあるか、その政策にはどんな弱点や矛盾があるか、「小さな政府」政策に立ち向かう労働運動の対抗軸はなにか、について、報告者なりに論点を整理し、みなさんからのご教示を得たいと思う。
1「小さな政府」論のとらえ方をめぐって
(1)曖昧・恣意的な「小さな政府」概念とその国民的視点の欠如
わが国においては、「小さな政府」の実現は、だれも反対することのできない当然の政策だと見なされていることが多い。しかし、そもそも「小さな政府」とはなにを意味するのかを問い直してみると、その概念や用法が実に曖昧で恣意的なものであることがわかる。
たとえば2005年版「経済財政白書」は、05年6月の閣議決定「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」にしたがい、その第2章「官から民へ―政府部門の再構築とその課題」の冒頭で「小さな政府とは」という1節をもうけて論じているが、そこではその用語が多義的に用いられていることを認めたうえで、次の三つの定義を示している。(1)は、政府支出の規模から見た「小さな政府」で、具体的には一般政府支出のGNP比で測られるという。(2)は、国民負担の大きさから見た「小さな政府」で、租税・社会保険料負担の国民所得比で測られるものだという。(3)は、公的規制の強さや公的企業が経済に占める大きさから見た「小さな政府」で、公的規制のもとにある産業の付加価値が国の付加価値総額に占める比率(規制ウェイト)で測られるという。ここには、政府や自治体が国民・住民の生活や権利の維持・向上にどれほど貢献しえているか、といった視点からの定義はない。あるのはコストから見た政府の問題であり、あるいは民間企業にとっての制約条件から見た政府規模の問題である。しかも、それぞれの定義が具体的に意味している内容をみると、(1)については、一般政府支出のみで政府規模を考え国際比較もするという無茶をしているし、(2)では、異常に高い公共料金負担や毎年の莫大な国債利払い・累積債務問題等は抜け落ちている。(3)で計算されている「規制ウェイト」などはきわめて曖昧模糊としたもので、大体多国籍企業の都合次第で「規制緩和」と言ってみたり公的資金の注入を強制して金融機関をつぶしてみたりしている政権にとって、「規制ウェイト」など存在しないのではないか。
興味深いのは、「小さな政府」の実現をアピールするときに政府が使っているのは、もっぱら(1)の定義だということだ。これから増税をしようという時に「国民負担」から見た「小さな政府」では具合が悪いし、国際的に見てもすでに異常なまでの自由化・規制緩和を実現してしまった小泉政権にとっては、(3)の定義もあまり有効ではないからだろう。(この点では、イギリス、アメリカ、オーストラリアなど、「小さな政府」政策をすすめている諸外国の政府が、どんな定義と基準でその政策をすすめているのか、調べてみる必要がある。)
(2)日本はすでに「小さな政府」――見つからない政策根拠
だが、政権にとっては困ったことに、(1)の定義・根拠で考えたとしても、日本はすでに国際的にはきわめて「小さな政府」になってしまっていることである。「経済財政白書」も、「先進国の中でも日本は比較的『小さな政府』である」とその事実を認めざるをえない。しかも、日本では一般政府支出に占める公共事業の比重が高いうえに、防衛・警察などが支出抑制圏外におかれ聖域化されてきたこともあって、国民生活関連の一般公共サービス、保健、社会保障・社会福祉などの政府支出から見ると、きわめて「小さな政府」である。その点についても、政府は間接的に認めざるをえない。とはいえ、そのことを端的に証明する「人口1,000人当たり公的部門職員数の国際比較」等の資料については掲載を避けているが(『2006年国民春闘白書』61pにはその資料が収録されている)。
では、なぜ緊急に「小さな政府」なのか。挙げられている理由は、今後の「予想」と「可能性」である。「少子高齢化の進展等によって政府の支出規模および国民負担が今後増大していくことが見込まれており、このままの政策を継続した場合、支出・負担といった面では、今後『大きな』政府に向かうことが予想される。」「政府の規模が大きくなる場合には、経済全体として効率的な資源配分が達成されず、そうでない場合に比べて経済活動に抑制的な影響を及ぼす可能性がある」といった具合である。こんな「理由」が、5%もの公務員数純減を強要し、大規模な地方財政の削減を強行する正当な理由となりうるものであろうか。予想や可能性なら、われわれは人口減にともなう政府支出の減少をも予想しうるし、ヨーロッパに見るような「大きな政府」のもとでの所得の再配分や合理的な経済運営によって、持続的で豊かな経済発展を実現していく可能性を主張することもできるであろう。ともあれ、それらの「理由」は、現実にすすめられつつある緊急かつ過酷な「小さな政府」政策の根拠となりうるものではない。
そのことは政府も感じているのであろう。結局かれらが持ち出すのは、「官から民へ」「国から地方へ」という「構造改革」のスローガンである。
(3)「小さな政府」の目標は「夜警国家」か
スローガンはさておき、「小さな政府」政策が現実に目指している政府・自治体とはいったいどんなものなのか。この点については、研究者や活動家の間にも若干混乱があるように思われる。
たとえば東大の神野直彦氏は、「『小さな政府』論は、政府の機能を暴力の行使つまり強制力の行使に限定する主張である。それは19世紀に目指した『夜警国家』を、つまり防衛と警察などに機能を限定した『いつか来た道』を歩むことだといってよい」と述べている(「日本の目指す『ほどよい政府』への道」)。これは神野氏にかぎらず、ジャーナリズムなどでも広く見られる理解であり、政府もしばしばそうした類の説明をしているが、それはあまりにもナイーブな時代錯誤の理解であり、欺瞞的な説明ではなかろうか。
今日われわれが生活している21世紀は、グローバリゼーションと情報化の時代であり、国際的な国家独占資本主義の時代であり、世界的には国民本位の社会体制への大きな転換がすすみつつある時代である。21世紀の「公共」は、国内でその領域を拡大する必要に直面しているばかりでなく、グローバリゼーションのもとでの国境を超えた「公共」や、情報化のもとでのバーチャルな「公共」をも包含する形で、質量ともに飛躍的に拡大発展する必要に直面している。「公共」の領域拡大と重要性の高まりは動かしがたい事実であり、どのような国家も今日では「夜警国家」などになりえようがないのである。そのことは、総務庁におかれている「小さな政府」政策にかかわる研究会の議論などにおいても、それなりに自覚されている。したがって「小さな政府」を掲げる諸政府も、実際には経済政策を中心に、人権・人口・保健・エネルギー・IT・環境対策などをふくむ多面的な政策を担っているし、担わざるをえないのである。
歴史的にみても、「小さな政府」政策は決して「小さな政府」や「夜警国家」をもたらしてはいない。減税による「小さな政府」政策の元祖といわれるレーガン政権は、実際には軍事費の増額によって政府予算を大幅に拡大し、空前の赤字財政を生み出して、社会保障税の増税を行うまでになった。イギリスのサッチャー政権も、公共サービス・社会保障の切り捨てや労働運動の抑圧によって失業と貧困を拡大し、結局は長期の経済不振をまねいて人頭税の実施へと駆り立てられ,失脚している。「小さな政府」政策が国民負担の増大をもたらす「大きな政府」に行き着くことは法則的だと言ってよい。そのことは小泉政権発足いらいの財政赤字急増一つをとってみても明らかであろう。
今日問題となっているのは、19世紀への逆行ではない。「公共」の重要性が高まるなかでますます浮き彫りになってきた資本主義体制の限界を、逆に「公共」の切り捨てと収奪によっていかに取り繕うことができるか、という問題なのである。
(4)レーガン流「小さな政府」からラムズフェルド流「小さな政府」への「進化」
上記のことに関連して留意しておかなければならないのは、レーガン時代の「小さな政府」政策と今日の「小さな政府」政策とでは、質的に異なっていることである。レーガン流の「小さな政府」は、主として減税と財政支出によって大企業や富裕層に有利な所得再分配を行う政策を推進したが、今日のそれは、それだけでなく、むしろ「官から民へ」というスローガンに示されるように、「公共」の税収や資産を大企業や富裕層が徹底して収奪する政策に力点を置くようになっている。それをラムズフェルド流と言うのは、今日のイラク戦争に見るように、軍隊や監獄でさえも民営化して利潤生産の場に変えてしまうような行政・軍隊のリストラを、先頭に立って徹底的にすすめたのが現国防長官のラムズフェルドだからである。
わが国においても、橋本行革の頃の「小さな政府」政策と今日のそれとは内容や力点が異なっている。たとえば、規制改革・民間開放推進会議の提言「官製市場の民間開放による『民主導の経済社会の実現』」(04年8月)を見ても明らかなように、政府は民間開放しうる官業として、税・年金などの徴収・給付から公的施設の管理・運営、登録・登記・証明、統計調査や紙幣等の製造、検査・検定や医薬品等の審査、さらには職業紹介から航空管制にいたるまで、ほとんどすべての公務を挙げている。そして、建築確認の民間丸投げ、「指定管理者制度」の導入、ハローワークでの「市場化テスト」をてことする民営化推進、等々に見るように、すでに公務の利潤生産業務への転換が大々的におしすすめられてきていることは周知の通りである。また、「官民交流の促進」という名のもとに、官公庁の主要ポストに民間大企業の人材を天上がりさせ、かれらが自らの利益にそって行政機構を動かすことを可能にする措置もとられてきている。そのうえ、郵政民営化もそうであるが、国・地方の公有資産売却(大企業や富裕層への廉価な払い下げ)を今後さらに大胆に大規模に推進しようというのが小泉政権の方針である。その主たる受益者が、アメリカをはじめとする内外の多国籍企業であることは、いまや公然の秘密だといってよい。今日の「小さな政府」政策は、実質的な内容からいえば、国民の諸権利切り捨てと公的資産私物化の政策であり、国・自治体の切り売り政策に他ならない。
このような「小さな政府」政策の質的変化の背後には、近年における資本主義経済の質的変化の問題がある。多くを述べる余裕はないが、アメリカでは80年代から、日本では90年代後半から(特に金融ビッグバンとアジア経済危機後に)すすんできた、「株主資本主義」の支配、あるいは過剰蓄積のもとでの投機的資本主義の広がりの問題である。そのうえ、わが国ではその過程が、(1)日本経済に対するアメリカの構造的な支配強化、(2)経済政策におけるサプライサイドの経済学やマネタリズムの席巻(日本語では同じように「新古典派理論」と訳されることが多いが、今日の「ニュー・クラシカル」とよばれる理論と、かっての「ネオ・クラシカル」理論とは区別する必要があるのではないか)、そして(3)次に見るNPMや「新しい公共」論の広がり、といった諸条件の下ですすんできたので、その「小さな政府」政策の反国民性と公共破壊の性格はひときわ顕著なものとなっている。
(5)NPMの導入やPPP論による「新しい公共」論の広がり
今日の「小さな政府」政策を問題とするとき、われわれは、新自由主義の経済理論とともにその政策を推進しているもう一つのイデオロギー的支柱として、NPM(公共経営論)やPPP(官民協働論)による「新しい公共」という主張に注目しないわけにはいかない。
NPM(New Public Management)というのは、公務員と市民との関係を公共サービスの生産・販売者とその顧客との関係(つまり一種の市場)としてとらえ、そこに民間企業の経営手法を導入して効率化をはかろうとする政策である。イギリス・ブレア政権の経験から学んだといわれるその政策は、すでに業績主義の導入、意志決定とサービス提供との分離、民間委託、市場化テスト、組織の「簡素化」、指定管理者制度などとして具体化され、公務の縮小・切り捨てに貢献してきている。これに対しては、官公労の労働組合などからすでに数多くの批判がなされてきた。
これに対して、PPP(Public Private Partnership)による「新しい公共」論とは、一口で言えば、21世紀の「公共」はもはや政府・自治体によってのみ担われるのではなく、(1)政府・自治体の公と、(2)NGOなどの民の公共と、(3)企業などの私、の三者によって担われなければならない、「公共性」の概念は公私二元論から三元論へと転換しなければならない、という議論である。報告者は、こうした三元論によって、公務・公共サービスを三分割するような主張は、政府・自治体の担う公的責任と国民の権利を曖昧にし、客観的には公務の民営化に道を開く、基本的に誤った議論だと考える。しかし、「新しい公共」論は、革新的な労働組合や住民団体のなかにも一定の支持を見いだしており、そこにはいくらか複雑な事情がある。同じく「新しい公共」論と言っても、そこには三つの異なる流れがあるからである。
すなわち、(a)は、国民の状態悪化と公共サービス・社会保障の後退が急速に進むようになった90年代後半から、福祉の現場や住民運動のなかから、住民相互の、あるいは住民と行政との協力・共同によって、なんとか住民の暮らしを守っていこうとする運動が高まり、その運動経験のなかから生まれてきた「新しい公共」という考え方である。(b)は、新世紀に入ってから「公共哲学」や公共政策の分野で積極的に主張されるようになった「新しい公共性」論である。「公共哲学」はもともと1980年代以降のアメリカで、1930年代のニューディール政策いらい確立されてきた市民の権利を見直し、それによって「モラルの絆」を建て直そうとする新保守主義的な主張として登場した。日本における「公共哲学」の登場はごく最近のことで、1997年頃に、将来世代国際財団と将来世代総合研究所が協同主催で公共哲学共同研究会(将来世代国際財団からの財政的支援をうけている)を組織し、これに東大、京大などの研究者が参加したのが出発点である。研究会における報告・討議の内容は、01年から02年にかけて10巻の「シリーズ・公共哲学」として刊行されたが、共同研究を中心的に取りまとめたのは、将来世代総研理事長の金泰昌氏であった。そこでは市場原理主義や画一的なグローバリゼーションに対する批判も見られるが、全体を通じて強調されているのは、「お上の公から民の公へ」の政策であり、「活私開公」(「私」の領域を活性化させることが「公」や「公共」の領域を開くことになる)という政策理念である。その内容は、憲法9条とともに「公共の福祉」の概念も変えようという自民党の改憲案に連動するものだといわねばならない。個々の研究者の主張は別として、今日までの「公共哲学」は全体として、「小さな政府」論を裏づける理論的支柱となっているといえる。(c)は、小泉政権が総務省のもとに組織した研究会(「分権型社会に対応した地方行政組織運営の刷新に関する研究会」)の提言「分権型社会における自治体経営の刷新戦略」(2005年4月)などに見るように、(a)の「新しい公共」の考え方をもつまみ食い的に活用しながら、行政の負担を徹底して軽減していこうとする政策である。それは、自治体行政を地域の「戦略本部」と位置づけ、実際の公共サービスは、住民、NPO、民間企業など多様な主体の「協働」を組織して提供していけばよい、とする。その政策手法の多くはNPMとオーバーラップしており、公務の民営化を大きく促進する政策となっている。
以上の(a)(b)(c)のうち(a)については、住民の権利拡充や民主主義の強化につながりうる積極的要素が内包されていることに留意する必要があろう。しかし、その場合にも、公権力の担う「公共性」の拡充を要求し、「公共性」を確保するうえでの労働運動の役割(CSRを想起せよ)を重視するような「新しい公共」論でなければ、あるいは、「構造改革」や憲法改悪に反対し、「もう一つの日本」を要求する運動の一環として位置づけられるような「新しい公共」論でなれれば、それは事実上「小さな政府」政策の補完物となってしまう危険があろう。
残念ながら現状では、「新しい公共」論は(b)(c)を中心に広められ、全体として「小さな政府」を推進するイデオロギーとして活用されていると言わねばならない。すでにイギリスではPPPの破綻が問題となっている時に、これはわが国特有の現象である。
(6)わが国における「小さな政府」政策の特異性
だが、わが国に特有なのは、この点だけではない。改めてわが国における「小さな政府」政策を俯瞰してみると、そこには次のような特異な特徴を見ることができる。
(1)「小さな政府」政策は、国民負担の重い福祉国家から相対的に国民負担の軽い「安上がりな国家」への「修正」として、減税政策と共に提起されるのが普通である。しかし、わが国で成立していたのは似非「福祉国家」であり、社会保障・社会福祉の貧弱な土建国家であった。そして今日の「小さな政府」政策が求めているのは、貧弱な福祉のさらなる切り下げであり、しかも、それと同時進行するより苛酷な増税=国民負担増である。この「やらず、ぶったくり」の「小さな政府」は、国民の立場からすれば実質的に「より大きな政府」を意味する。
(2)「小さな政府」推進の最大の理由とされているのは「財政危機」であるが、小泉内閣は「危機」のもとでも、大企業減税、軍備増強、ゼロ金利維持、為替対策、不良債権処理、等々、「必要」と考える分野については、「大きな政府」であり続けている。いいかえれば、それは国民生活関連分野に攻撃の的をしぼった、差別的な「小さな政府」政策である。
(3)地方分権をうたっていながら、自公政権は、「三位一体」政策や道州制導入をにらんだ市町村合併の押しつけを通じて、あるいは国の地方に対する責任放棄によって、地方自治体に「小さな政府」政策を強要している。すでにその結果は、恐るべき地域社会崩壊の多発として表面化している。
(4)当面する「小さな政府」政策の最大の目標を公務員職員数の純減と総人件費削減におき、数値目標を設定して中央・地方でその政策を推進しつつあるが、小泉内閣はそうした政策を、公務員労働者の労働基本権を否定したままの状況下で強行するという、国際労働基準にも反する暴挙に出ている。
(5)「小さな政府」政策の内容や方向についてイニシアティブをとっているのは財界である。財界はいまや政府や政権党に対する外からの働きかけ(要望・提言・政治献金など)によるばかりでなく、政権内部における直接的な影響力行使(経済財政諮問会議、規制改革・民間開放推進会議、行革推進本部などへの中心メンバーとしての参画、民間企業と各省庁との「人事交流」、官業の民間委託、など)によって、予算編成から法律制定、行政指導にいたるまでの強力な発言権をもつようになっている。その場合、注意しなければならないのは、今日の財界がアメリカをはじめとする外国企業をも会員に迎えて、わが国大企業の利益を代表するというよりも多国籍企業の利益を代表するものに変化していることである。
(6)しかし、財界以上に大きな影響力を行使している者がいる。アメリカ政府である。実際アメリカは、わが国の「小さな政府」政策についても、日本に対するその「年次改革要望書」や制度化されたアメリカ政府との「協議」をつうじて、細部にわたるまで政策内容の「調整」と「合意」をもとめ、「合意」にしたがった政策の履行過程を監視・点検することまで行っている。国際的にも前代未聞のことである。
(7)「小さな政府」政策の現局面
昨年総選挙後の郵政民営化の実現といわゆる「2005年体制」の「成立」を転機として、国際金融資本はいっせいに「日本買い」に転じている。その動きが、今後の「小さな政府」政策の急進展を予測し、それにともなう民営化や公的資産売却などによって莫大な高収益を確保する機会が到来するであろうことを期待してのものであることは、明らかである。いまやアメリカ・日本の多国籍企業は、国・自治体の解体・収奪に公然と乗り出すようになっており、小泉内閣も行革推進の担当大臣に竹中平蔵氏を配してその期待に応えようとしている。
そうした収奪政策の一環として、政府は、大々的な財政支出の削減と増税を同時に強行する政策をとりはじめた。財政再建が差し迫った課題だというのであるが、赤字財政克服の政策も計画も提起しえないままに、ともかく国民の犠牲で余剰財源をつくりだすことが目指されている。その超緊縮政策の前提=口実となっているのは、景気が本格的に回復したとする「現状認識」である。しかし、多くのエコノミストが指摘しているように、その判断は楽観的に過ぎる。雇用・失業実態の厳しさや勤労者世帯の所得低迷を見ても、あるいは中小企業経営や地方経済が直面している困難(素材・燃料の高騰、需要の偏り、「人手不足」、赤字収益、廃業多発、市街地空洞化、など)を見ても、景気は本格的な回復にはほど遠い。そこに強行される大規模な需要削減策は、景気をふたたび悪化させ、税収の減少をまねいて、財政赤字をいっそう深刻化させる可能性が高い。
国際経済環境の変化も、政府の緊縮政策の前提を突き崩している。靖国問題などによる日本のアジアおよび世界での孤立化が急速に進むなかで、これまで日本経済の景気回復を支えてきたアジア経済の発展が、最近は日本を素通りしてすすむようになってきた。同時に、日本経済が近年ますます一体化をつよめてきたアメリカ経済では、際限のない軍事費膨張と「双子の赤字」拡大のもとで、石油の高騰、中国・インドなどへのアウトソーシング、自動車メーカーのリストラなどが大規模にすすんでおり、消費景気の後退を高金利政策の行きづまりがますます明らかとなってきている。こうして日本の貿易収支の黒字は急速に縮小に向かっており、これまでのように、輸出拡大によって国内景気が支えるという状況ではなくなってきている。
日本経済の直面するこうした困難にもかかわらす、小泉内閣の「小さな政府」政策は、公務員の削減、公共サービスの切り捨て、地方の切り捨て等を推進し、公共の破壊と格差の拡大に拍車をかけようとしている。また、国民生活関連予算を削り、地方自治体の財源を縮小させ、「下流社会」を肥大化させるなかで、国民の間の競争と対立を煽り強めようとしている。
しかし、総選挙から半年、「小さな政府」政策をめぐる情勢は大きな様変わりを見せつつある。(1)耐震偽装、ライブドア、アメリカ牛肉不正輸入、医療費値上げ、タクシー行政破綻、等々で、小泉「構造改革」の行き詰まり・破綻が明らかとなり、「構造改革」の見直しを求める声が国民の過半を占めるようになってきたこと、(2)「三位一体」改革や軍事基地の地方押しつけ、医療制度改悪による住民の医療費負担増大、中小企業関連金融機関の整理、等々の小泉政権の政策に反発して、中央に対する地方の反乱が随所ではじまったこと、(3)長年賃下げを押しつけられてきた労働者たちが、大企業の空前の高収益を前に不満を高め、春闘への結集が強めていること、(4)そうした状況に日本経団連も、「労資協調」体制の維持を図るべく一定の賃上げを容認せざるをえなくなっていること、等をみても、今日の「小さな政府」政策はすでに大きな障害に直面していることがわかる。
支配層にとって、恐らく唯一の局面打開策となりうるのは、公務員攻撃であろう。公務員・公務員労働組合と民間労働者・国民との対立をつくりだし、煽って、大規模な公共の荒廃・空洞化・解体を引き起こし、ビジネスチャンスにつなげていくことである。したがって「小さな政府」政策の行方は、また自公政権の将来は、中央・地方で公務員労働者を主力組合に組織している全労連の手に握られている、と言ってよいのではないか。
2 今日における「小さな政府」政策のねらいとその矛盾
全労連はすでに昨年12月7日に「小さな政府」政策とたたかう闘争本部を立ち上げている。「小さな政府=大きな国民負担に反対し、もう一つの日本、安心できる公務・公共サービスをめざす全労連闘争本部」(略称・もうひとつの日本闘争本部)という恐ろしく長い名称の闘争センターであるが、そこには全単産・地方協議会の代表が結集し、2007年7月の参議院選挙を目途に運動を盛り上げていこうとしている。そこでの討議などを参考に、あらためて「小さな政府」政策のもたらすものは何か、そのねらいと矛盾について整理してみると、こうなる。
(1)大増税など、より大きな国民負担の押しつけ
「小さな政府」と言いながら、実際には「大きな政府」への転換。政府は、今後の景気回復によって国民所得が増大するので、国民負担率は低下すると強弁しているが、それほど景気回復に自信があるのなら、増税などせず、税収の自然増に期待すればすむことである。
(2)公務・公共サービスの切り捨てと全面的な民営化
今でも職場の人手不足は深刻なのに、職員数の純減となれば、もはやカバーできない行政分野が多発することになる。しかし、公務・公共サービスの必要性はなくなるわけではないので、引き起こされた公務・公共サービスの劣悪さ・欠落を逆手にとって、規制緩和=民営化を推進するというのが支配層の常套手段となっている。しかし、すでにわれわれは、規制緩和=民営化が国民の最低限の安全さえ破壊してしまうという証拠を山ほどもっている。また、公務・公共サービスの拡充こそが生活の安心・安全と住民負担の軽減をもたらすという事例をいくつも経験してきている。今われわれは、具体的な事実にもとづく説得が大きな力を発揮する情勢を迎えている。
(3)公務員攻撃をテコとする民間のリストラ・賃金抑制の推進
国家公務員62万人、地方公務員312万人をはじめ、公務部門で働く労働者は全体で441万人(2004年度)に上る。公務員労働者に準じて雇用・賃金・労働条件をきめられている民間労働者は、中小企業や福祉分野を中心にそれ以上の規模になると推計される。いま、この大量の公務員労働者について、成果主義を導入し、総人件費や職員数を削減して、賃金切り下げや人減らしを実現しようとしているが、その政策は民間のリストラや賃金抑制に連動することとならざるをえない。公務員攻撃とのたたかいを抜きにしては、民間労働者の賃上げや雇用安定の確保も困難である。しかし、逆に、民間労働者の賃上げ意欲が高まっている今日、官民労働者の統一闘争が発展すれば、相乗効果で大きな成果を獲得できる条件も生まれている。この点ではとくに、公務員制度改革の進展にともない、ILOなどから繰り返し指摘されてきた公務員の労働基本権問題が浮上していることが注目される。
(4)国民の間の格差拡大と貧困層の増大
小泉「構造改革」のもとで格差社会が進行したという批判に対し、最近内閣府は、わざわざ格差は拡大していないという資料を作成して発表したが、ジャーナリズムでも一笑に付されて終わった。しかし、そのことは、市場至上主義の立場に立って「自己責任」を強調し、格差の発生は当然のこととする新自由主義の政府であっても、格差拡大に対する国民の批判には神経質にならざるをえないことを示している。同じように、「下流社会」の形成・膨張として話題になっている貧困層の増大問題については、新自由主義の見地に立つ論者たちも、それを「構造改革」の陰の問題として取り上げざるをえなくなっている。しかし、「小さな政府」政策の推進は、今後これらの問題を格段に深刻化させていくことになろう。労働組合は、その発言権を大いに高めうる機会に際会しているのである。
(5)景気の悪化と地域社会の崩壊
すでに見たように、「小さな政府」の国民負担増政策は景気の悪化をまねくであろうが、その悪化は勤労者や地方に対して差別的に増幅されて作用していくだろう。
最近政府は有効求人倍率が1.00になった、雇用情勢は改善されたと宣伝しているが、それはパートなど非正規労働者に対する求人増によるものであり、正規労働者の求人不足はいぜんとして厳しい。しかもそれは著しい地域格差の拡大をともなっており、北海道、東北、四国、九州、沖縄には地域社会の崩壊をもたらすような厳しい失業情勢が見られる。実際、厚生労働省は最近、全国7つの失業多発地域について、特別の失業対策を講じざるをえなくなっているのである。
労働総研は2002年12月に、建交労からの委託をうけて『公的雇用創出のための政策提言』をまとめたが、その主要な提言内容は「小さな政府」政策とのたたかいのなかでも活用しうるのではないかと思う。
(6)「小さな政府」論と国民の要求・意識との乖離
「小さな政府」論者たちは、国民は誰しも「小さな政府」に賛同するものと頭から決めてかかっているところがある。しかし、国民の要求や意識は必ずしもそうではない。先に朝日新聞が行った世論調査では、たとえ負担増になっても社会保障の水準は維持してもらいたい、とする意見が多数派であった。「負担増になっても」という点は設問の仕方に問題があると思うが、ともかく国民の多数が「安心できる公務・公共サービス」の確保を望んでいることは明らかである。政府の政策の実態がもっと知られるようになり、財政赤字などについても別の解決の道のあることが明らかになれば、この要求はさらに強まるであろう。この点に確信をもつことが重要である。
(7)「泥棒国家の完成」?!
さいきん国民の目は、「構造改革」や「小さな政府」政策を熱心にすすめているのはどういう連中なのか、それらの政策は結局だれの利益になるものなのか、という点に向けられるようになってきている。毎日のように談合、天下り、裏金づくり、インサイダー取引、脱税、等々が報じられ、それらの構造が浮き彫りになってきているのであるから、当然であろう。総合雑誌などでも、この点に厳しいメスを入れる論考が増えてきている。
この点で象徴的なのは、在日外国人ジャーナリストのB.フルフォードが書いた『泥棒国家の完成』という本が話題になっていることだ。彼はiron
kleptcracy(鉄の結束を誇る泥棒集団、とでも訳したらよいだろうか)という英語の造語を使っているが、日本はいまや政官業にヤクザを加えた「泥棒集団」に国家を乗っ取られてしまった国だ、と論じている。「泥棒集団」のなかにアメリカを加えていないのは片手落ちだし、公務員や共産党を頭から敵視するようなところはいただけないが、今日の小泉政権の本質をなかなか鋭く突いている。こうした書籍が大手の出版社から刊行され読者を得ているという状況は、注目すべきであろう。国民は「小さな政府」政策や「構造改革」の全体像を知りたがっている。労働運動はその欲求に応えなければならない。
要するに、以上で報告者が言いたかったのは、「小さな政府」とのたたかいはその厳しい影響の側面に目を向けるとともに、もっとその矛盾や弱点にも目をむけて進める必要があるのではないか、ということであった。しかし、それでもまだ十分ではない。
3 「小さな政府」政策と「もう一つの日本」の運動
(1)「もう一つの日本」が意味すること
すでに見たように、全労連の闘争本部には「もうひとつの日本」という肩書きがついている。何のことか、大衆的にはまだあまり知られていないと思うが、それはもともと「世界社会フォーラム」を組織するなどして反グローバリゼーションの運動を発展させてきた理論的指導者スーザン・ジョージの著書からきている。フランス在住のアメリカ人である彼女は、2004年に“Another
world is possible if …”という本を書いて、「われわれが適切な努力すれば、今日のアメリカを中心とする市場万能の世界とは異なる、より人間的な別の世界をつくりだすことが可能だ」と主張した。Another
world is possible は、今では新自由主義に反対する運動の世界共通のスローガンとなったが、それが最近は日本の社会運動のなかでも「もう一つの日本」という表現で使われるようになっているのである。「もう一つの日本」という表現を最初に使ったのは内橋さんだったと思うが。
ともあれ、全労連闘争本部のその肩書きは、こう主張していると理解してよいであろう。「小さな政府」政策とのたたかいに勝利するためには、われわれがそれに対抗して構築しようとしている社会像を、あるいは、その実現のために必要な住民本位の公務員制度改革、地域興し、財政赤字克服策、等々の具体策を、労働運動の側から積極的に提起してたたかいをすすめる必要がある、と。そして、いま春闘のなかでは、「安心・安全の社会」「働く仲間が元気の出る社会」というのが、「もう一つの日本」を示すスローガンとなっているのである。
(2)「小さな政府」と「大きな政府」「ほどよい政府」
「小さな政府」に対抗する運動のなかでは、国民の要求として「大きな政府」や「ほどよい政府」が対置されることがあるが、それらについてはどう考えたらよいであろうか。
「大きな政府」という表現は、(1)社会保障の充実した政府、という意味や、(2)ケインズ的な財政政策を展開する政府、という意味で使われることが多いが、「構造改革」論者たちがそれを使うときは、(3)ムダが多く非効率で、国民負担の大きい政府、という意味で使っている。労働運動の立場からすれば、(3)が論外なのはもちろん、(2)にも問題があるわけで、そういう多義的で誤解されやすい用語で国民の要求を表すことはできない。
「ほどよい政府」というのも、何を基準にして「ほどよい」のか曖昧だという点を別としても、冒頭で見た「小さな政府」論者の欺瞞的な論議の土俵にひきこまれてしまう危険があるという点で、労働運動による使用は避けたい表現である。
労働運動は自ら考えぬいた概念を、国民的な希望をこめたわかりやすい表現で対置すればよいのである。「安心できる公務・公共サービスの拡充」というのは、まさにそうした表現の一つではないだろうか。
(3)公務員労働者・労働組合への信頼回復
ところで、労働運動がそうした政策提起を行う以前の問題として、忘れてはならないことがある。それは、労働運動の提案を真摯に聞いてもらえるように、公務員や労働組合への信頼を回復する問題である。
公務員制度をめぐっては、天下り、キャリア制度、いわゆる「職員厚遇」問題など、もともと是正さるべき問題が多いうえに、公共サービスの悪化が続き、談合、収賄、使い込み、情報漏洩などの不祥事が多発しているので、公務員に対する国民の不信は非常に根深いものとなっている。しかも、そうした不祥事に労使協調の御用労働組合が巻き込まれるケースも珍しくない。国民にとっては、まともな公務員・労働組合とそうでないものとを区別することはほとんど不可能であるし、公務・公共サービス全体の改善をめざし、労働運動全体を視野に入れてたたかいをすすめている全労連運動の立場からすれば、不公正な行政や不祥事等の問題も他人事だとしてすませるわけにはいかないであろう。
「小さな政府」政策とのたたかいは、公務のあり方を根本から問い直し、不正を大胆に告発し是正していく運動と一体のものでなければならないのである。
(4)専門セクトからの脱皮と国民に開かれた討論
上記の点とも関わって、公務・公共サービスの問題はそれぞれ専門性が高く、国民の理解を得ることがなかなか難しいという問題がある。そのため問題の研究や討議も事情のわかる仲間内だけのものになりがちであり、広く国民に開かれた討議が不足している状況が見られる。また、労働組合のなかでの研究・討議では、専門的な業務内容にかかわる話に終始し、労働運動との関わりで討議の深められることが少ない、という状況も見られる。「小さな政府」政策とのたたかいでは、官民労働者の統一闘争や国民との共同闘争がカギをにぎるだけに、こうした状況の改善は非常に重要だといえる。
(5)「もう一つの日本」と「2005年体制」打破の課題
さて、「もう一つの日本」を理念的なスローガンに終わらせずに、現実政治を国民本位に改革する政策として具体化していくためには、昨年総選挙後に生まれた政治状況、いわゆる「2005年体制」を打破するたたかいを発展させねばならない。「2005年体制」と言われているのは、要するに、(1)内閣総理による強力な大統領的権限の掌握、(2)マスコミ支配のもとでの劇場型政治の展開、(3)政権基盤の農村から都市若年層への拡大、(4)与党による議会の専制支配、(5)日本政治へのアメリカ機関投資家の参画、(6)憲法改正への着手、などを特徴とする独裁的政治体制のことである。しかし、その体制はまだ完成してもいなければ確立してもいない。『2005年体制の誕生』を書いた、小泉政権のシンクタンク「21世紀政策研究所」の理事長・田中直毅氏も、「2005年体制」は中央政府レベルでは成立しかかっているが、自治体レベルではまだこれからであり、自治体改革なしには「2005年体制」を定着させることはできない、と認めている。脆弱さを残すこの危険な政治体制を大衆運動によって制約し打破していくなかから、「もう一つの日本」の内実を実現していく可能性も大きく開けてくるにちがいない。最近の小泉政権による大型店出店規制への動きは、その可能性を端的に証明している。「もうひとつの日本闘争本部」が、その運動目標を2007年の参議院選挙においている意味も、「2005年体制」打破に関わってのことであろう。
おわりに
政府は昨年年末の臨時閣議で、「行政改革の重要方針」を決定し、5年間で国家公務員の5%以上純減、政府資産・債務の圧縮、市場化テスト法および行革推進法の早期提出、「行政減量・効率化有識者会議」の設置、などの政策を打ち出している。「有識者会議」には、かっての土光臨調のような大きな権限をあたえ、奥田現日本経団連会長に小泉退陣後も辣腕をふるってもらう構想だと伝えられる。「小さな政府」政策の弊害があらゆる側面から明らかになりつつある今日、労働運動はまず、こうした方針・構想を広範な労働者・国民各層とともに打破していく、という課題に直面しているのである。
(本稿は、さる1月21日に開かれた労働総研・政治経済動向部会研究会での報告に、当日の討議をふまえて加筆したものである。)
(おおき かずのり 代表理事・労働総研政治経済動向研究部会 部会員・日本福祉大学)
- 佐々木毅・金泰昌編『シリーズ・公共哲学』1〜10巻、東大出版会、01〜02年
- 林康義「『新しい公共』概念の提起する諸課題」『都市問題』01年9月号
- 辻山幸宣「新しい公共サービスの考え方」八王子自治研究センター02/11/27
- Susan Geoge, Another world is possible if…, Verso, London,2004
- B.フルフォード『泥棒国家の完成』光文社、2004年3月
- 規制改革・民間開放推進会議「官製市場の民間開放による『民主導の経済社会の実現』」04年8月3日
- 山脇直司『公共哲学とはなにか』ちくま新書、04年5月
- NPO法人コミュニティシンクタンクふじ
「市民が求める公共サービスに関する調査研究」、04年8月
- 国公労連「構造改革に関する私たちの主張」04年10月
- 全労働省労働組合「いま、なぜ公的職業紹介か」04年10月
- 『NIRA政策研究』04年11月号 特集:「新しい公共」のプラットフォーム
山口 定 「新しい公共性―状況と課題」
山脇直司 「公共性のパラダイム転換」
粉川一郎 「新しい公共における官民の役割と協働関係の評価」
犬飼重仁 「公共圏のプレイヤーとしての企業の今日的課題」
- 晴山一穂「いま"公務の公共性破壊"を考える」国公調査時報、04年11月号
- 総務省・分権型社会に対応した地方行政組織運営の刷新に関する研究会「分権型社会における自治体経営の刷新戦略―新しい公共空間の形成をめざして―」05年4月
- 閣議決定「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」05年6月
- 内閣府『経済財政白書』2005年版、05年7月
- 森裕之・平岡和久「『三位一体改革』の成否をにぎる一般財源」『世界』05年8月号
- 朝日新聞社説「選挙で公務員の削減を競え」05年8月22日
- 三浦展『下流社会』光文社新書、05年9月
- 小原隆治「平成大合併の現在」『世界』05年10月
- 『週刊東洋経済』特集「伏魔殿の大リストラ──公務員史上最大の受難」05年11月5日
- 「主張・『小さな政府』』論−人間性にかけられた攻撃」新聞赤旗05年11月8日
- 特殊法人労連「市場化テスト」問題プロジェクトチーム:「『市場化テスト』がつくる 『小さな政府』−福祉は小さく税金は重く−」05年11月
- 田中直毅『2005年体制の誕生』日本経済新聞社、05年11月
- 「社説 『小泉劇場』は『05年体制』を開いたか」、日本経済新聞05年12月30日
- 「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国政府要望書」05年12月7日
- 日本経団連『経営労働政策委員会報告2006年版』05年12月
- 関岡英之「奪われる日本──米国に蹂躙される医療と保険制度」『文藝春秋』05年12月
- 生活経済政策研究所『生活経済政策』2006年1月号
特集:「小さな政府」論批判
神野直彦「日本の目指す『ほどよい政府』への道」
田中信孝「日本の『小さな政府』を考える」
宮崎伸光「公務員“特権階級”たるべからず」
- 田中章史「『小さな政府・自治体』に対する私たちの運動を考える」『月刊自治労連』
- 『連合白書─2006春季生活闘争の方針と課題─』
- 連合中央執行委員会「公共サービス・公務員制度のあり方に関する連合の考え方」06年1月
- 「シンポジュウム・『小さな政府』『官から民へ』攻撃の本質と社会的反撃」『前衛』06年3月
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